2014年 09月 18日 ( 1 )

長月と稲



季節は9月半ばを過ぎ、
旧暦呼称であるならば、「長月」は最中。


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「長月」

その語の由来において最も大きな意味を指しているのは、
端として「夜が長い(長くなる)」ということにあるようです。




平安時代の問い歌(問答歌)においても


昼夜の 数はみそじに あまらぬを

           など長月と いい初めけん

                     ― 『拾遺和歌集(1006年頃)』  参議 伊衡 / 876 - 939



 という長月の由来を訊く問いに対して


秋ふかみ 恋する人の あかしかね

           夜をなが月と いうにやあるらん

                     ― 『 同 』  凡河内 躬恒 / 859? – 925?




と答え、長くなっていく夜の印象を歌に伝えています。













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長月は本来は旧暦呼称であるため、長月の半すぎというと、
現在でいうところの11月初頭に当たります。




長月はその時期性を留めた異称・別称(またはその由来名)を持ちます。

「稲刈月※(いなかりづき)」、「稲熟月(いねあがりづき)」などの異称・別称を持ち
その由来において、庶民が自然とともに生き、畏怖し、悩んだ季節を過ぎ、
待ち焦がれた恩恵を心から喜んだ気持ちが、
その名の中にひっそりと込められているように思います。








晩稲(おくて)も早稲(わせ)も 頭を下げた

半年がゝりの 涙と汗は

變(かわ)つた變つた 黄金(こがね)の花に


我等はもとより百姓の

日がな一日 蚯蚓(みみず)を切つて

おんぼろさん ぼろ下げもすれ


蛭(ひる)に責められ 田蜂(たばぢ)に刺され

血みどろちがひに 田の草取つた

土用の辛さは 忘れねど


水戸のお館 光圀さんは

簑笠出(いで)だちの農人形を

二の丸御殿に 置いたとさ


穂に穂重ぬる めでたさを

祝へ、子持の嫁ん女(こ)が

明日は鶏起(とりおき) 早稲(わせ)から刈ろさ


           ― 『豊年』   横瀬 夜雨 / 1878 - 1934


















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貴族、武士階級、土豪などを除き、長きに渡って庶民の中では
米は霽れ(ハレ)の日の特別な食であり、褻(ケ)と呼ぶ普段の生活の中では
ほぼ口にすることがない、ある種の神聖視がなされた農作物でした。


この信仰心を重ねた考え方は、稲作の伝播した遥か昔から守られ
現在の宮中や伊勢宮で行われる「新嘗(にいなめ)」などの大祭(たいさい)も、
根幹にこうした稲作への信仰を包含しています。

これを大事とせぬ者への大罪は『延喜式(927年)』の大祓の祝詞(のりと)の中でも強く示されており、
日本人の思想の中で「米(総じて食べ物)を粗末にしてはならない」「正月(ハレ)には餅を」という
自然から恵まれることへの感謝を、生きる上での最も重要な思想とした民族として
その後も長く、自然との優れた関係性を生み、同時にその関係性そのものに美しさを見る
絵画、文学、美術を残していきます。




延喜式のこの強調箇所の由来は神話に遡り、天照大神(アマテラスオオミカミ)が
「天つ罪」を犯した素戔男尊(スサノオ、スサノヲ、スサノオノミコト)を
追放したことが引き継がれたように思います。

これは、高天原において姉の天照大神が稲の栽培に懸命に努めていたとき、
弟の素戔男尊は「溝を埋め」「畔(あ)を離(はな)ち」「屎(くそ)麻理(まり)散らし」といった
農作を妨害し破壊した行為があったとされ、八百万の神々(やおよろずのかみがみ)が協議し
同じ神である素戔男尊を追放すべきか最後まで悩み、
結果、高天原を追放された話に端を発しているようです(Ex./神逐)。


余談ながら日本神話の中では、素戔男尊はその後に出雲で稲作への理解と共存を見せ、
稲田の女神と解釈される櫛名田比売(『日本書紀』では奇稲田姫/クシナダヒメ)と結ばれ、
櫛に変化(へんげ)した彼女を自分の髪に挿し
ヤマタノオロチ(山神または水神)を倒します。



八雲立つ  出雲八重垣  妻籠に  八重垣作る  その八重垣を


                     ― 起源不詳(日本初の和歌とされる) / 素戔男尊
















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道教影響による五行思想に加えて、またそれ以上に日本人にとって
一年の周期や四季の指標の多くは稲の一生でもあり、現在に至っています。
 
また、その循環は単純な反復ではなく、稲を通した生命の甦りとして強く信じられてきました。




収穫された稲穂は、現在においても地域によっては円柱状などに穂を組む風習が残ります。

この稲屋(別称として稲積、穂積、稲叢、葉薄など)は日本列島の南西岸側(特に沖縄方面)において
古くは「誕生」に通ずる『シラ』という古語韻で呼ばれました。
稲積に保存された種子が、翌年、また新たに芽を再生することを目の当たりにし、
「稲霊=田の神」が永続していくという発想は、稲の甦りへの生命信仰に続き、
稲屋は産屋(うぶや)とも解されました(柳田國男「海上の道」等参照)。



稲屋に似た小屋をつくり、その中で子を産む習慣を持っていた地域も多くあり
現在から、そう遠くない頃までそうした風習が各地にあったことはあまり知られていません。
Ex./ 福知山市三和町大原など)


















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稲への信仰心は、ごく自然に文化へと派生し、古くから稲や稲作の様子は歌に詠まれてきました。




なづきの田の 稲幹(いながら)に稲幹に

           這ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)

                     ― 『古事記』  読み人知らず




おして否(いな)と 稲は舂(つ)かねど 波の穂の

           いたぶらしもよ 昨夜(きそ)独り寝て

                     ― 『万葉集(東歌)』  読み人知らず








そして、これもまたごく自然に日常の言葉の中にも浸透していきました。




多くの類例がありますが
たとえば、『稲妻』という言葉もそのひとつと言えます。


現代では「妻」は夫が女性の配偶者を指すときに用いられていますが、
本来、「ツマ」は男女にかかわらず配偶者を指す古語起因の言葉で、
「夫」と書いて「つま」と読まれる時代は長くありました。

つまり、稲妻は稲の配偶者ということになります。


実際、雷は稲の育ち実るときに多く発生し、また雷の多い所や年は
稲の実りが良いことも知られており、庶民の中では稲の妻と呼ぶにふさわしいものでした。
近年の研究で判ってきた、雷の放電により空気中の窒素がプラズマ結合され、
植物の生育に有益な窒素化合物が合成されるなどの科学的な根拠もありますが、
当時は長い年月の経験則の中から、
雷と稲の関係性を日本人は知っていったようです。











長々と書きつつも、刈入れを目指す時期と新暦で長月という呼称を使うことは、
対応できなくなった季節性の現代となりました。

趣きや、暮らしの意味を名に込めた旧暦呼称に、季節が同期しなくなってしまった
新暦の世と言えるかもしれません。




それでも、宗教以前より数千年に渡り、
この島国の風土と人々の汗がもたらした実りを思うと
こうした、今なお残るさまざまな話に触れたくなる季節に思います。








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 染付 案山子鳴子図 行灯皿 〈大正時代頃〉   御売約 個人蔵

※賀茂真淵(1697-1769)は、この呼称「稲刈月(いなかりづき)」略化されたものと
 して、「ながつき」としたと伝えている。
※田蜂/ 人や動物を刺す害虫である「ウシアブ」を指す方言
※文章に関しては民俗学的な見地からの個人見解を記載したものです。
 極端な主義・思想・啓蒙を有しての内容や、天皇論などを論じた内容でないことを、
 ネットという性格を考え僭越ながら重ねて言及しておきます。
※The photograph of the 5th row ―  Public domain (United States)
 From/ The archives of the Museum of Science Boston.







                            百芍丹
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by h_s_t | 2014-09-18 16:14 | 日々のこと