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New Breed of Geniuses.

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henlywork



氏とのお出会いは数年前
ある日、偶然に遊びに来ていただけました。

そして、新しい作品が構成される度に、出来たばかりの作品を携え
いつもお見えになられました。






積上げの理論化云々ではなく、優先されたのは「背景」そのものに感じます。


初期の頃から痛いほどに映像を醸した音で、
いきなりの天才の出現に、驚愕したとしか言いえずの自分を晒したことに
躊躇は全く無かったように記憶しています。




















その後もある種の制約の中で、制約に反比例する大きな力を肝に落とし
完全に武装したり、武装を解き無手を楽しんだりの「融通無碍」な「遊び」を従えて、
進化する天才らしさを発揮されているように感じます。






























かつての、Perfumeのカンヌでの部門銀賞は記憶に深く、
動体への Projection Mapping や
Webを通じての「遊び」の感覚が交錯するマテリアルの提供と再編集など
新しい演出域にまず目を捕らわれましたが、
その逆の、非常に古い歴史観や背景そのものに注目すべき点が多かったようにも思います。

一例には、数学の持つ原初的な美と謎、理想平衡も、実に細かな所までそこには使われ、
語られてはいませんが確信的に真鍋氏も行っていたのではなかろうかと感じます。


偶然にも、1991年以降Coqが用いているCalculus of Constructionsの変種も、
帰納的構成を直接含みながら、source(根源)に近づき証明を行う特性を持ちます(Ex.Four Color Theorem)。













かつて、竹村延和氏が音楽よりも、音が出る空間や環境、物理学的側面そのものへ
スリリングに回帰した時期を見せたり、小林径氏が”Routine”のその1stにおいて
「最も力強い音楽は言わずもがな宗教音楽である」と、
異色すぎる曲を選考したりと、あらゆる創造家が
”「遊び」や「音」というものがその原初に持つ姿”を探す片鱗は、
新しい音楽家たちの残す興味深い聖痕(Stigmata)とも思えます。

「source(根源)」を探す。戻る。











古い物と何ら関係の無くも見える話ですが、
音楽、映像をなさっておられる方々とも縁が深まることが多いような気がします。

そして「背景」や「落差」の手がかりのひとつとして、そうした方々の
お役に立ったことが僅かでもあったのであれば
とても嬉しく思います。




氏同様の、sourceをめぐる新しい天才たち。

機会に恵まれればこの場で、僭越をあえて大きく飛び越し、
ご紹介させていただきたいと思います。



こうした方々に出会うことは、音楽はまだ死なず
音楽が新しい命の宿主を探し続けていることに向かい合うかのようで、
望ましいモデルやフォーム、お手本、パターンを人々に浸透させ
救い難い錯覚と礼賛する様を蔓延させることとは、
全くの異質であるように感じます。





























   henlywork
     soundcloud.com/henlywork 
      chalkboy






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 Sir henlywork , Thank you for your sweetness .





 
                                 百芍丹
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by h_s_t | 2017-02-28 16:16 | 日々のこと

Minimal Music









音の動きを最小限に抑え、スケール反復と音型パターンの固定反復を
旨とした音楽ジャンルで、世界的第一人者としてはスティーヴ・ライヒや
テリー・ライリーが頭に出てきます。


自身もOctet-Eight Linesなどの曲は、僭越ながらも店内でたまにかけていたりします。
















静的な変化を繰り返す様は、ドゥルーズ哲学におけるジェイムズ・ウィリアムズの語る
「差異と反復」に書かれる、反復が予期と変化の条件であることを想起させることがあります。












端的に実験的作品のような評価がされることも多いのですが、
このジャンルのはじまりをどこと捉えるかは、一般論においては難しく
エリック・サティとするのか
強い影響を与えている反復性だけを注視すると
土着の宗教音楽や民族音楽を根源に持つのか
(ライヒ自身アフリカ音楽やガムランなどの研究を行っている側面を持つが)。


僕自身の考えの中では、プロセスはどうであれ探るべきソース(根源)は
非常に古いものや、原体験から、このジャンルは日々生まれ続けているように思います。















リチャード・D・ジェイムスのAphex Twin名義での久々の新譜「Syro」が出て、
かなり突き抜けた変化を見せたなと思いながらも(変化の多いアーティストでもある)、
初期における「Ambient Works 85-92」のシリアスな展開は
単純に、テクノ、アンビエント、エレクトロニカと言われる枠から外れ
意外にも、反復や音型枠という軸を外して眺める
遡行性という、ミニマル・ミュージックとの共通感覚を感じることも多いです。




遡行においては、人のつながりも本来はそうしたものが
深く影響しているようにも思っています。

超心理学的なオカルトめいた不明な話は抜きにして、
随分前、記憶の以前、そうした印象から知っているような人物や
ある人と居ると既視感(デジャヴ)を多く感じたり、
その人と一緒に物を見ると、物からの言語外現実(realia/レアリア)※を強く感じたり。


そういう人々と生きているうちに巡り会うことは
とても価値があることと個人的には思っています。





















骨董や古物とて、軸の外し方は難しいのですが
そういうアプローチができるのではないかなと、
思うときもあります。









※言語外現実(realia/レアリア)/言葉の背後にある、我々が感得できる本来の
 文化的内容(現実、実物)。つまりは言語とそれをとりまく内容によって、人間は
 「第二の自然や現実」といえる文化的な現象を自分たちでつくっている。
 例えば、「水」という言葉の言語外現実は「無色透明な流動性ある何か」である
 ということを、視覚や体感を通して得る内容のこと。
 (Ex./西田哲学-純粋経験 等)









             百芍丹

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by h_s_t | 2017-02-27 12:00 | 日々のこと

蝋梅 ― ろうばい

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  まばゆしや 君をし見れば

  薄ら氷(ひ)に 朝日かがよふ


  えふれじや 君としをれば

  蠟梅の花ぞ ふるへる


  冬こそは ここに  ありけめ









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          「 冬 」 (旧版底本)   芥川 龍之介 / 1892 – 1927 
 














 
                           百芍丹
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by h_s_t | 2017-02-26 12:12 | 日々のこと

凍解(いてとけ)と二月尽(にがつじん)



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如月という美しい字があてられた二月も
いよいよ終わりを迎えようとしています。





凍りついた大地も緩み、
あまり使われなくなってしまった「凍解(いてとけ)」という言葉そのままに、
冬が春の到来を許し、立ち去る感がそこここに溢れ始めました。



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二十四節気においても雪はもう降らず、雨となり、
積もった雪も水へと姿を変えていく「雨水」をすでに越えました。

今年はこの「雨水」のころが、各地は雪に覆われ
冬が最も激しく、最後に春に立ち向かった感があります。



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地球の表面には年間平均1000mlの雨や雪が降ります。
対して大気圏内の水蒸気は降雨量に変えると平均して25ml。

海や河川、森林を介して、空気中の水は年間40回も全く真新しいものに
単純計算では入れ替わっていることになります。

理想的な平衡を持った、こうした循環の中に
身を置かせてもらっていることになります。
















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今週には、「霞始靆(かすみ はじめて たなびく)」という時節を越えます。

山々に春らしい霞が靆(たなび)きはじめ、水蒸気たちは山々に満ち
野辺を霞みがける魔法のような時間があちこちで始まります。

この水蒸気が所謂「花冷え」をもたらす原因のひとつかもしれませんが、
上古の万葉の時代から「春は霞(朧/おぼろ)」※とされ、
この島国の山河が織り成す、美しい表情のひとつに思います。




  淺緑(あさみどり) 花もひとつに かすみつつ

        おぼろに魅(みゆ)る  春の夜の月

                     ───── 菅原 孝標女 / 「新古今和歌集」(巻一) 春歌上・56



  霞立つ 長き春日を 挿頭(かざ)せれど

        いや懐しき  梅の花かも

                     ───── 小野氏 淡理 / 「万葉集」(巻五・846)


  春たつと いふばかりにや み吉野の

        山もかすみて  今朝は見ゆらむ

                     ───── 壬生 忠岑 / 「拾遺集」1



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二月の終りを告げる季語、「二月尽(にがつじん)」。

それぞれの月に“尽(じん)”を付け、終りを示した季語です。



「逃げる」と当てられるほどに早く終わる二月。
同時に終わりを待つ感も、誰しも一様にあるのではないかと思います。

期待しても良い暖かさへむけた冬の終りを含め、
卒業に向けて、入学に向けて、就職や独立に向けて、
新しいことを見越し何かが無事終わりつつある良さを内包し、
ほっとしたものを感じる、人間らしい季語に思います。



そして、鳥たち同様に
皆、出発が近いことを 胸に秘めているような語かと。










  ちらちらと 空を梅ちり 二月尽


          ───── 原 石鼎 / 1886 - 1951










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※当時から、朝昼のものを「霞」、夜を「朧」と区別し愛でられてきています。






                       
                              百芍丹
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by h_s_t | 2017-02-25 12:00 | 日々のこと

反復-本質の記号化  ───── 縄文土器陶片




縄文早期-中期の陶片。

いずれも安価なもので、出土地、経緯 全く分かりません。



このようなものを購入しても実用には程遠いながらも、
数千年前の日本人の生んだ「トラッド」な思考が、
この店の運営に わずかながら役立つ気付きを
いつも与えてくれています。


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それぞれの掻落文、孔文、貝文、縄文、etc…。

不規則なようでパターンやグループとして認識可能で
反復性のあるものが多く、反して精緻な規則性は無い。
加えて、多くは入念に最後(仕上がり)を予想したものではなく
文様の辻褄(つじつま)が合わない箇所がある。


これは、
人の活動そのものに感じます。


いかに進歩しようとも変えがたい、人間の本質の記号化。









縄文人は、後の農耕をもたらす弥生人と異なり
山河の中で狩猟採集を行い、航海術にも長けていましたが、
近年のDNA型の細分分析によって分かってきたことは
ポリネシアなど南島系種族とはまた異なる種族と考えられており、
北方系種族の弥生人の移入前に、この島国に辿り着いていたようです。

寒さから厚い肉で目を守る必要がなく
薄い肉の瞼(まぶた)から、はっきりとした二重瞼であったのが特徴と言われています。












遮光器土偶をはじめ、この時代の土偶は
後の時代の宗教とは異なり、崇拝の対象ではなかったことも
分かりつつあります。

自分たちが恵みを得て、かつ争うことは困難な、
強大な力を持つ「自然」というものからの
霊性を得るためや、祈祷のため製作されたという説が有力です。

祈祷や祭りのようなものでは、どういった歌が歌われていたか、
おそらく単純な音や声の「反復」であったろうとは分かれども
もはや誰にも分かり得ません。

また、この考えは人型に合わせて生まれた土偶だけでなく、
土器にも当てはまるのでは、という考え方が一般的です。


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後の時代に言語化され、「呪」という言葉があります。



「呪」と聞くと、度を過ぎるホラー映画の影響からか
人や死者の禍々(まがまが)しいものを想像しがちですが
僕たちの生活の中に今も生き、無意識にそれを行っている人もたくさん居て、
今日、知らずとお子さんにしているお母さんもたくさんいるはずです。







「おまじない」 がこれに当ります 。







「まじない」を変換すると、「のろい」と同様に
『呪い』 となります。


古い語義の実体は、 実は同義です。








「いたいの いたいの 飛んでいけ」

             - 呪歌 /本州中心に広域 発祥不明 「痛みの緩和」


「嚔(くさめ)、嚔(くさめ)」
             - 呪歌 /広域 発祥不明 「くしゃみが出た後の凶兆封じ(≒呪詛返し)」
                    参照:「枕草子」、「徒然草」、「簾中抄」、「拾芥抄」 他
                    ※後に「くそくらへ」「糞食らえ」「ちくしょう」などに転化


「血の道は 父と母の 始めなり 血の道かえせ 血の道の神」
             - 呪歌 /広域 発祥不明 「血止め」


「とうぴんぱらり」「とっぴんぱらりのぷう」
             - 結句 /東北 発祥不明 「話の終わり(現実に戻る)」
                    「めでたし、めでたし」など広域に同義のものあり


「桑原桑原(くわばらくわばら)」
             - 呪歌 /甲信越を中心に広域 発祥不明 「雷除け」


「さるでさるまさ さるでさるまさ さるでさるまさ さるでさるまさ」
             - 呪歌 /東北 発祥不明 「糸のもつれをほどく」
                    ※「フキフキホグセ」「フイテホゴセ」(いずれも関東圏)など
                      多地方に形を変え存在





お気づきになられている方も多いかと思いますが、
多くの呪歌は、同音や同語の「反復」という規則性やパターンを持ちます。


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「のろい」と「まじない」。

辞書を紐解くと、現在では別の意味がその使用観から出てきてしまいますが※
いずれの語彙の裏側にあるのは

・受けた人間の行動を律する(制限・制約する)
・心理的効果

という点かもしれません。



























土器の表面の反復から、古いまじないを読み取り
お客様の心理的効果と行動を律する…。

そんなことは超能力者でも無理な、それこそオカルト話ですが
今日一日を良い日にするために、笑顔で近隣の方に挨拶したり
商品をご覧いただきやすくするため約束を与え整列させたり、
自分にまじないをかける大事さと、
反復する毎日に意味があることを
土器は語ります。



そして、土器の文様に辻褄が合わない箇所があるように
人間には出来ない日もある、ということも
こっそりと教えてくれているようです。










※広辞苑には古語ながら「まじくなふ」という語彙が今も記されています。
※呪歌・俗信・昔話は地方によりその内容に差異があります。詳細は日本民俗学会、
 現代民俗学会等、国内各学会寄稿の論文をご参照ください。
 この場では割愛させていただきます。
※撮影の石器のみ国内縄文期のものではなく、より遡った時代となる中石器時代(ア
 フリカ北部-紅海域)の参照撮影品です。ここに注釈させていただきます。

■縄文土器陶片   御売約







                       百芍丹

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by h_s_t | 2017-02-24 15:54 | 品々のこと