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追儺過ぎ



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  今年今月今日今時 大宮内に神祇官宮主の 祝ひまつり敬ひまつる

  天地の諸御神たち 平けくおたひにいまさふへしと申す

  事別けて 詔りたまはく

  穢く悪しき疫鬼の 所所村村に 蔵り隠らふるをば

  千里の外 四方の堺

  東方陸奥 西方遠価嘉 南方土佐 北方佐渡より

  おちの所を なむたち

  疫鬼の住みかと定め賜ひ 行け賜ひて

  五色の宝物 海山の種種味物を給ひて罷賜ひ 移し賜ふ

  所所方方に 急に罷往ねと追給うと詔るに

  奸心を挟んで 留りかくらば

  大儺公 小儺公 五兵を持ちて追い走り

  刑殺物ぞと 聞き食ふと詔りたまふ



                       ― 儺祭乃詞 / 延喜式-陰陽寮 (927年)










追儺で追われる 「鬼」。

恐ろしい顔で、これを追う
四つ目の「方相氏」。




















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本来、追儺は大晦日に行われた宮中行事のひとつです。

奈良時代、『続日本記 / 慶雲三年(706年)』において
大儺が行われた記載があり、これが初出の文献とされています。





その本来は、目に見えぬ「鬼」を追う儀礼形式で
鬼を追う方相氏役は兵部などが担いましたが、
鬼役というものはありませんでした。


字義における「鬼」は、大和朝廷期から平安期まで、
当時の中央政権によりあらゆるものが当てはめられたはずで、
この拡大解釈の痕跡は、この時点で日本列島という島々が
民族の多様性を豊かに内包していたことを密かに伝えます。



















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平安末期となり、中世に移り変わる日本においては
追儺は宮中では極端に廃れた感があります。

逆に民間では、既に伝わっていた風習でもある
古代漢民族の大豆を用いた呪術とされる豆撒き(Ex./ 五行)や、
礫(つぶて)を投げ邪気を祓う「印地打ち」などと習合し、
さらに変質し、その後の鎌倉-室町期を通して広まりを見せます。

ちなみに陰陽師が関わっていたと言われている「印地打ち」は
礫(つぶて)そのものが福をもたらす力を持った珠(玉)とされていたようで
この行事自体が祝祭の性格を持っていたことがわかります。

このことが習合の中で、豆蒔きの豆を「福豆」と呼ぶことに
繋がったであろうことも同じく読み解けます。


















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この習合・変質・変遷の中に、当時の信仰の力の移り変わりも垣間見れます。






行事の中で、古くは具体的な形を持たず、
視覚化されていなかったはずの 「鬼」。







しかし、追う側の方相氏の姿こそが恐ろしかった点が利用されていきます。

いつの間にか 「方相氏こそ恐ろしい」 という
視覚対象になっていきます。







そして平安の末期には、方相氏を鬼として追い回すように理解されていきました。
室町期になると、はっきりと 「方相氏とは鬼のことである」 と記述された
文献も登場します。 (Ex./『公事根源』一条兼良


つまり、追う者が、いつの間にか
追われる者となってしまったわけです。







この痕跡は、追儺でよく知られる吉田神社に伝わる図画の中でも
鬼に似た面をし、角を生やした方相氏が居たりしており、
鬼として追いやられていることが描かれています。

現在も、こうした装束の箇所は修正されず継続されています。


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この 「鬼を追うはずの方相氏こそ恐ろしく、追われる役となった」
という点から興味深く看てとれるのは、
それまで日本の神社系文化と上手く寄り添い、平安期に隆盛を極めた陰陽師達が、
平安末期以降、民衆の中では(仏教の「救済」という考えと対比すると)
彼ら陰陽師こそが畏れられ、忌避される存在になってしまったことが窺えます。
















対象が生まれたことで、かつては観ることができなかったはずの鬼は
「見える」という考え方で定着します。


そして、見えるようになった鬼は、時代が進む中、
より印象的なモチーフが求められたのか、仏教美術に表れる魔物たちが
鬼のモチーフとして利用されていきます。














そして本地垂迹説以降の仏教により、
この後も、より複雑な信仰上の文化形成をなしていきました。










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  クリスマス

  正月の祭祀

  節分

  バレンタイン






あらゆる文化的行事や風習、教義、信仰が、今現在も
時代とともに変遷と習合され、生活上の不自然さなく成されていくのは
江戸期より前の文化形成において、
この国がある種の多民族性(多様性)を寛容に見つめていたことを匂わせるものであり、興味深く、
網野善彦や平泉澄が提唱した、中世日本におけるアジール概念を少し思い起こす感で
極めて類例を見ない国だなと、つくづく思います。







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 十二神将 宮毘羅像

※本地垂迹説 / 神道と仏教を両立させるために、奈良時代から始まっていた
 神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)という信仰行為を、理
 論付けし、整合性を持たせた一種の合理論で、平安時代に成立した。
 仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つであり、それまでの日本
 の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本
 の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考え。
 これは、仏教というものが発祥以来、日本だけでなく各地で布教されるに際し、
 その土地本来の様々な土着的な宗教を包摂する傾向があることに起因する。
 明治期の神道国教政策により神仏は再分離された。

※The photograph of the 4th row ―
 International Reserch Center for Japanese Studies <国際日本文化研究センター>©
 吉田神社追儺 都年中行事画帖(1928年)
※The photograph of the 5th row ―
 ”Setsubun No Oni “ from Hokusai Manga (北斎漫画 四編)
 Katsushika Hokusai (葛飾北斎, Japanese, 1760? - 1849)
※The photograph of the 7th row ―
 融通念仏縁起絵巻(清涼寺本) 清涼寺










                        百芍丹
by h_s_t | 2015-02-04 21:25 | 日々のこと
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